どうしようもなく、溢れる感情。
全ては彼だけのために。
臥龍鳳雛「はげしかれとは祈らぬものを」
鳳統が正式に劉備の軍師になって、数日が過ぎた。
彼は孔明と並び劉備幕下の知の双極として、
すぐに確固たる地位を築いた。
(……当然だ)
私室の卓に上半身をすっかり預けて、だらしなく伏す。
(彼は本当に優秀なのだから)
理解はしていた。
それでも、気付いた感情はどうしようもなかった。
嫉妬。
知謀で抑えることが出来たら、楽だろうに。
行き場のない心を投げ捨てるように、
壁をひたすら睨んでみる。
ずっと見ていると、ここ数日の鳳統の姿が浮かんでくるようだった。
大体、再会したその日から嫉妬に狂っているのだ。
まず劉備。
流石に義弟の張飛や関羽ほどではないが、
随分と鳳統を気に入っているように見える。
頻繁に彼を呼び、何かと話し込んでいるのだ。
そしてその義弟の張飛も同じである。
どうやら耒陽県への使者になったことが機会で親しくなり、
何度も酒宴に招いていた。
その席に出た他の者たちも、
それをきっかけに鳳統と誼みを結んでいるようだから
さらに都合が悪い。
その他、法正など同じ荊州出身の者たちも
これみよがしに鳳統と荊州の話で花を咲かす。
(嗚呼、何て最悪なのだろう!)
とんでもなく苛立っていた。
この苛立ちが無意味で無益で無駄なものだと分かっているから、
さらに苛立ちは強まる一方だ。
苛々。
イライライラ。
いらいらいらいらいらいらいら。
いらいらいらいらいらいらいら………
「何をだらけておる」
背後の戸が開いて、声が降ってきた。
間違おうとしても間違うことの出来ない声だ。
「士元!」
士元――鳳統である。
慌てて姿勢を正し、鳳統へ向き直る。
すると、清潔で上品な衣装に身を包んだ彼が
ひどく非難がましい顔で睨んでいた。
「諸葛亮殿。働いて戴かねば困りますぞ」
「……働いていますよ」
拗ねた顔で横を向く。
実際に背後の卓には、書きかけの新しい政策案がある。
「だが、書きかけじゃろうが」
そして小言が続く。
(仕事のことしか考えていない!)
適当に相槌を打ちつつ、聞き流す。
(私は…私は貴方のことばかり考えているのに)
「何だ、その目は」
じっとりとした恨みがましい瞳に、鳳統は一時口を閉ざす。
しかし一向に答える様子のない孔明に、もう一度言う。
嫌味のおまけ付きだ。
「いい年の男が駄々っ子のようにふて腐れて、どうしたのだ?」
その物言いに、ただでさえ珍しく苛立っていた孔明は遂に乗せられた。
――平時は他人よりも頭脳の点でやたらと優れているものだから、
苛立つより先に憐れに思うのである。
立派に生やした己の顎髭を強く握り、鳳統を睨む。
それから、洗いざらい話した。
即ち、嫉妬の件だ。
苛立ちと、不安もあったのかも知れない。
堰を切った言葉は、止まることなく想いを吐露した。
「ぶわっはははは!」
そうして全て話し終えてしまえば、まさかの哄笑だった。
「駄々っ子かと思えば、生娘の間違いじゃったわい」
笑いに零れた涙を袖で拭う。
孔明の予想とは掛け離れた態度に、茫然とする。
(正直、気色が悪いと罵られると思った)
案外に他人と言うものは、自分が恐れるほど自分を気にしない。
一動への敵方の動きを読み、戦局を作るのが孔明ら軍師の仕事だ。
とは言え流石に今回のようなものは、分からないものだ。
口を開けたままの孔明に、鳳統もまた未だ口の端が笑っている。
「よもや『あの』諸葛孔明が、
これまでわしに友情を持っていたとは知らなんだ」
“あの”とは、公正無私で冷静沈着な『軍師・諸葛孔明』のことだろう。
他人が自分を超人のように言うのは、知っている。
「まるで女子のようじゃ」
苛烈過ぎるぞ、とあくまで揶揄するように言う。
真剣な想いを笑い飛ばされた。
しかし、だからこそ救われた気がした。
それは単に秘めた想いを知られずに済んだことへの、安堵ではない。
平静を保てなくなるような苛立ち。
それを彼が吹き飛ばしてくれたようだった。
腹に渦巻く不快な感情が抜けていく。
「まあ、酷薄でいらっしゃいますね」
だからもう取り乱すこともない。
いつもの涼やかな笑みを浮かべて、戯れを言う。
「軍師とはかくあるべきじゃ」
「流石は鳳雛先生」
どっと二人で笑った。
しばらく笑い合った。
それから区切りがついたところで
二人は改めて卓を挟んで向き合うようにして、座った。
こほん、と鳳統が咳ばらいする。
「折角同じ天下へと向かう道に立ったのだ。
真面目に劉備殿の今後の方策を考えるぞ」
それから用意してきたらしい劉備軍に関する資料を
卓からはみ出すほど広げていった。
顔を見れば、やる気に満ち溢れて瞳が輝いている。
とても嬉しそうだった。
それから劉備軍の現状についてや、
孔明の『天下三分の計』の話を語る。
その瞳もやはり、嬉しそうであった。
彼は長く世に知られることなく、鳳雛の名を手に入れても
仕える君主を見つけていなかった。
だからこうして劉備に仕え、天下取りへの策を練ることが
嬉しくて仕方ないのだろう。
ずいぶん昔、少しだけ二人で語った『天下』への道。
それを本当に彼と目指すことが出来るのは、
孔明にとって何よりの喜びである。
と言うより、そのために彼を劉備幕下に呼んだのだ。
(何故それを忘れ、暢気に苛立っていたのだろう)
己に苦笑する。
嫉妬に狂うなど、まさに未熟な生娘のようだ。
(…恋の、熱病と言うのだろうか)
恐ろしいものだ、と心中で震えた。
さて、表では。
鳳統と今後の方策について語らう。
今までは殆ど一人で考えていたが、流石は鳳雛だ。
他の者にはなく、また自分とは違う視点からの有益な意見を出す。
話す内に言葉に力が入り、知らず知らず身振りや手振りをする。
不器用そうな彼の手も動き、天下統一を描く。
それを見ていると、改めて彼が傍にいるのだな、と思った。
手を伸ばせば彼に触れられる。
耳を澄まさなくとも、声が聞こえる。
とても幸せなことなのだと、思えた。
(ああ、)
(なんと愛しい時間だろう)
もう愚かな嫉妬などはしない。
こんなにも幸福なのだから。
今はそう思えた。
多分、明日にはきっとまた嫉妬をするのだろうと
心の隅で理解しながら。
恋の熱病とは、何よりも厄介な病だ。
彼といる時ならば充足する心は、彼がいないと途端に崩れる。
彼がなくてはならない。
だがどうして鳳統が孔明のためだけに、傍にいてくれるだろうか。
そんなこと、出来るわけもない。
(ああ士元に出会えたことは、何よりの宝だ)
(この想いが私に与える、喜びと苦しみ)
(その全てさえも宝だ)
今日までも、沢山の喜びと苦しみにあった。
これからも彼のために、喜びに浮かれ、苦しみで身を切るだろう。
それでも、それでも。
宝だ。